LOGIN―――異世界・アルカディア王国―――
「陛下、昨日の外交はお見事でした」
執務室に入ってきた宰相シグルの表情は、珍しく柔らかかった。
普段は穏やかで、あまり感情を表に出さない彼が、今日は違う。 その顔には、明らかな安堵と、わずかな驚きが浮かんでいた。「最初はどうなることかと思いましたが、途中の発言で完全に関係を修復されました。さすがです! 条件もこちらにとって、とてもいいものでしたね」
シグルの声には、純粋な賞賛が込められていた。
「……うむ」
レオンは書類を捲りながら、わずかに頷く。
その動作は、いつもの無愛想なものだったが、胸の奥では小さな安堵が渦巻いていた。 書類の文字を追いながら、昨日のことを思い返す。(確かにあのまま最後まで聞かず、あの者を返していたら、また戦争だったな……)
「……シグル」
「はい」
シグルは姿勢を正した。
主君に向けたその目には、いつもの忠誠が宿っている。「もし……俺に助言をする謎の声があるとしたら、お前はどう思う?」
「……は?」
シグルの表情が、一瞬だけ固まった。
「例えば、だ。姿なき誰かが、俺の行動を正そうとしているとしたら?」
レオンは、シグルをまっすぐ見た。
その目は冗談ではなく、本気で聞いている。 シグルの顔には、困惑と心配が浮かんでいた。 彼は慎重に言葉を選び、口を開く。「陛下……。それはつまり……日々の疲労またはご病気では?」
シグルの目が、心配に揺れる。
その声には、主を案じる気持ちが滲んでいた。 レオンはその言葉に、ぴくりと眉を動かした。「そんなわけがあるか」
短く、鋭い否定。
声のトーンに苛立ちが混じっていた。 レオンの目が、わずかに細くなる。(病気? この俺がありえん。それより……あの声が俺の行動を止めようとしている。この不可解さ、不快感……。俺を諌めるなど、許せん)
その時。
『だから幻聴扱いされるって言ったじゃん!』
まただ。
今度はさらに鮮明な、怒った女性の声。 まるで、すぐ隣で誰かが話しているかのように、はっきりと耳の奥で響く。「——!?」
レオンはその声に思わず目を見開き、頭を抱えた。
両手で頭を押さえる。 頭痛とは違う。 幻聴? いや、そんなまさか。 しかし、この前と同じ声の主が、今もはっきりと響き渡っている。(お前は何者だ!?)
レオンは心の中で叫んだ。
その声は、明らかに怒りと、恐怖が混じっていた。『え、聞こえてるの!? ホントに!? うそでしょ!?』
驚きと、喜びと、困惑が混ざり、焦る声の主。
「……陛下? 大丈夫ですか? お顔がすぐれません」
シグルが不安げに近づく。
それに、手を挙げて制す。「あぁ、大丈夫だ。問題ない。それより水を持ってきてくれ」
その言葉にシグルは「ただいま持ってきます」と慌てて部屋を出た。
レオンは深くため息をつき、声の主に問いかける。「お前は、一体何者なんだ。俺は神などという不確定なものは、絶対に信じないぞ」
相変わらず高圧な態度で、臆することなく問う。
『あはは……神様信じないとか、ほんとそういうとこそっくり過ぎるんだから』
どうやら相手は苦笑いをしているようだ。
『神様じゃないけどさ。王様がとても私の身近な人に似てるから、なんか放っておけなくて』
レオンは鼻で小さく笑い、ほんの一瞬だけ冷ややかな一瞥をくれてやった。
「お前の身辺の情報など知らん。助言もいらな……」
『おっと、そんなこといっちゃう?この前のやつ、私の助言でうまくいったことを忘れちゃった?』
その返しにレオンは言葉を詰まらせる。
確かにあの制しが無かったら、間違いなく前回と同じ道を歩んでいたはずだ。「……お前、名前は――」
そこで、ノックと共にシグルが戻ってきた。
両手に水差しと杯を持ち、王の様子を心配そうに見つめる。「陛下……本当に大丈夫ですか……? 」
シグルの声は、主人のただならぬ雰囲気に震えていた。
(やばいやばいやばい、王様の怪しい態度で幻覚疑惑かけられてるじゃない!)
声の主が、慌てた様子で叫ぶ。
『ちゃんと説明して! 信頼関係の基本は説明・共感・感謝! まず彼があなたを心配してる理由を考えて!』
説明・共感・感謝
その声に圧倒されながら、レオンは頭の中の助言をブツブツと呟き繰り返した。
深く息を吸い込み――「シグル。お前が心配するのも当然だ」
シグルの目が驚きに見開かれる。
今までにかけられたことのない言葉に、信じられないという表情が浮かんでいた。「……実は昨日から妙な現象が起きている。この俺に助言をする謎の声が聞こえるんだ」
「陛下……それは……」
「だがその声は昨日、外交を成功させた。あの声がなければ、大変な過ちをしていただろう。」
宰相の目が変わる。
冷静な観察者の顔に、鋭い洞察の光が宿った。 シグルは、数秒間沈黙し、そしてゆっくりと口を開く。「つまり……陛下には、『導き手』がいるということですね?」
『導き手! シグル、いいぞー! 理解が早い!』
声の主が、明るく弾んでいた。
「そう解釈してもらって構わない。……すまなかった、不安にさせて」
「そんな、陛下……謝罪まで……」
「お前の忠誠に感謝している」
レオンは、静かに言った。
いつもの冷たさがない言葉に、シグルの目がさらに潤む。「……身に余るお言葉です、陛下。この国は……まだ救われます」
レオンは黙って頷いたが、その表情は複雑だ。
強がりな王の仮面の裏で、胸の奥では小さな波紋が広がっていた。そして。
なぜか頭の中では、喜んでいる声の主と小さな拍手の音が鳴っていた。周囲は、最大の祝福に包まれていた。 最大の持ち上げ。 最大の賞賛。 民衆は歓喜し、神殿は勝利を宣言し、ここに居るすべての者が、レオンを讃えていた。 涙を流す者がいた。 手を取り合って喜ぶ者がいた。 地に伏して祈る者がいた。 広場を埋め尽くす民衆の顔は、まるで長く待ち望んだ救いが、ついに訪れたかのように、一様に輝いていた。「神に愛された王だ!」「この国は守られている!」「始まりの神が、我らと共におられる!」 声が、波のように押し寄せる。 その波は、広場から街へ、街から国、世界全体へと広がっていくだろう。 歴史に刻まれる瞬間。 人々が語り継ぐ奇跡の日。 すべてが、完璧に整っていた。 けれど。 レオンは、何も感じなかった。 あの温かい気配が、もう、どこにもない。(カヤ) 心の中で呼ぶ。 けれど、返事はない。(カヤ―—!) もう一度呼ぶ。 それでも、何も返ってこない。 いつもそこにあった『繋がり』が、完全に断たれている。 まるで自分の一部が、無理やり引き剥がされたような感覚だった。 心臓があるはずの場所に、冷たい空洞だけが残っている。 レオンは、ゆっくりと御像を見上げた。 その動作は、まるで糸の切れた人形のように、力が入っていなかった。 御像の胸が、静かに脈動している。 ドクン、ドクン、と。 規則正しく、穏やかに。 その脈動を見つめながら、レオンの唇がわずかに動いた。(返せ) レオンは心の中で、叫んだ。(返せ……!) その声は、誰にも届かなかった。 シグルが、スッと前に出た。 民衆の視線から、レオンの揺らぎを遮るように、静かに立つ。 その動作は、ごく自然で目立たない。『王の弱さを民衆の
御像の光が、最高潮に達した。 その光は、もはや神々しいとしか言いようがなかった。 広場全体を照らし、民衆の顔を白く染める。 民衆がざわめき、その光を見た者は思わず息を呑んだ。「像が……!」「光った……!」「これは……奇跡……!」 どよめきが、波のように広がっていく。 期待と驚き、それに圧倒されたような恐れ。 オズワルドが高壇から、歓喜を隠しもせず両手を天に掲げた。 その姿は、まるで神の代弁者のようだった。 ざわめきの上から被さるように、その声が広場全体を貫いた。「見よ! 奇跡が起きた!」 民衆が、一斉にオズワルドを見た。「我らが抱いた不安は、無意味ではなかった! 王の中に、『始まりの力』が宿っておられたのだ!」 民衆が、一瞬息を呑む。「御像が示したのは、創造神アーク・ディア=カヤ! この世界を創りし古き名が、我らが王を選ばれたのだ!」 沈黙――そして。「神が……!」「王様に神が……!」「始まりの神に選ばれた王……!」 波のように広がり、広場を、神殿を、そして街全体を揺るがすかのように歓声が爆発した。 涙を流す者、手を取り合う者、地に伏して祈る者、民衆は狂喜した。「神に愛された王だ!」「この国は守られている!」「始まりの神が、我らを見ている!」 オズワルドが、さらに声を張り上げる。「明らかになったのは、浄化の成否ではない! 王が清いか穢れているか、そのような些末なことではない!」 オズワルドは一度腕を下ろし、御像を指し示した。 たっぷりと間を取り、証人めいた顔で。「最高位である始まりの神が、王に宿っていたという事実である!」 民衆の歓声が、
―――神殿 祈りの広場――― 扉が開くと、熱が押し寄せた。 人、人、人。 広場を埋め尽くす民衆の群れ。 数百人、いや、それ以上であろう人の数。 老若男女が、柵の外から、窓から、屋根の上から、あらゆる場所から、広場の中央を見つめている。 視線が一斉にこちらへ向き、ざわめきが波のように膨らんだ。「王様だ……」「本当に来た……」「浄化されるのかな……」 期待と、疑念と、不安が混ざり合った声が空気を震わせる。 レオンは一歩、広場へと踏み出した。 朝日が、その背中を照らす。 広場の中央には、本式の御像が据えられていた。 巨大な石の身体。 優に三メートルを超える高さ。 その表面には、複雑な紋様が刻まれている。 古代の文字、幾何学的な図形、見たこともない記号。 それらが、まるで生きているかのように、淡い光を帯びていた。 そして、胸のあたりに、円形の窪みがあった。 その窪みだけが磨かれたように滑らかで、ドクン、ドクン、と、心臓めいた淡い脈動を刻んでいる。 朝日の反射のせいか、御像が呼吸しているように見えた。 レオンは、その御像を見上げ、顎をわずかに引いた。(……浄化だけに、こんな大袈裟なものを) レオンは口の端を上げ、虚勢で鼻を鳴らした。 反面、異様な光景に、背筋がぞくりと冷え、心臓が妙に早く打っていた。『あれ、王様……。なんか変な感じがする』 カヤの声が、心の奥で響いた。 いつもより小さく聞こえる。(……俺もだ) レオンは心の中で答えた。 けれど、もう引き返せない。 民衆の視線が、四方八方から刺さる。 好意も、値踏みも、まだ疑いを解かない目も、そこにあった。 オズ
―――神殿 礼拝堂――― セレスは、いつものように礼拝堂で祈りを捧げていた。 朝の光が、ステンドグラスを通して差し込み、床に色とりどりの模様を描いている。 その光を纏い、慈恵神の像が、優しく微笑んでいた。 セレスは跪き、目を閉じる。 両手を胸の前で組み、静かに祈りを唱え始めた。「慈恵神よ……我が国と、民を、お守りください」 その声は、いつもと同じだった。 穏やかで優しく、祈りに満ちていた。 いつものように、最後の結び句を続ける。「——そして、創造神アーク・ディア=カヤよ……どうか、我らの世界をお見放しにならないでください」 瞬間——空気が、変わった。 セレスは目を開けた。『何かが違う』 いつもなら、この祈りを唱えた後は、心が穏やかになる。 静かな安らぎが、胸に満ちる。 けれど今日は明らかに違った。 冷たい。 まるで何かが、この場所を見ているような。 セレスは息を呑んだ。 礼拝堂の空気が、わずかに重くなっている。 いや、重いというより、張り詰めている。 まるで、弦が限界まで引かれているような感覚。「……何……?」 セレスは小さく呟いた。 慈恵神の像を見上げる。 その優しい表情は、いつもと変わらない。 それなのに、何かが違う。 セレスは立ち上がり、礼拝堂を見回した。 物音すらも無く、誰もいない。 静かだ。 けれど、その静けさが、妙に不自然だった。 まるで、誰かが息を潜めているような―― セレスは、組んだ指先に無意識に力をこめた。(今日の儀式……) セ
―――神殿 礼拝堂――― セレスは祈りを終え、ゆっくりと目を開けた。 そして、振り返った。 レオンは彼女を見つめていた。 その目には、明らかな動揺が浮かんでいた。 彼の瞳孔がふっと開き、唇がわずかに震えた。「今……創造神カヤ、と?」 レオンの声は、いつもより少し高かった。「はい、古い伝承ではありますが。この世界を創った神の名だと言われています」 セレスは静かに答える。 その声には、何の疑いもない。 レオンは「そうか」と返そうとしたが、言葉が喉に引っかかった。 指先が、微かに震える。 その時—— シグルがすっと歩み出て、穏やかに微笑むような表情で、話し始めた。「創造神アーク・ディア=カヤですか。……今は、ほとんど忘れられた伝承ですね。私もその伝承が幼少のころから大好きでして、よくその資料を読み漁ったものです」 とセレスに笑顔を向ける。「そして、今のは古い時代に残る『結び句』ですね。慈恵神への祈りに、創世の名を添える——大昔は、そういう祈り方もあったと文献で読みました」 セレスが、声をひそめて目を丸くした。「まぁ、シグル様。とてもお詳しいのですね」「つい嬉しくなってしまいまして。お二人の会話に割り込んだ非礼、お許しください」 シグルは礼儀正しく一礼し、元の位置へ下がる。 そして下がり際、レオンにだけ——表情は崩さず、声量だけを落とした。「……陛下。伝承の話として受け取りましょう。ここは神殿です」 淡々とした声音だが、目の奥には冷たい緊張が張りつめていた。(神殿がその名に触れた。まずい。こちらの弱みになるかもしれない) レオンは一瞬だけ視線を伏せ、息を飲み込んだ。「…&helli
―――神殿 炊き出し場――― 炊き出し場では、貧しい民衆に温かい食事が配られていた。 大きな鍋から湯気が立ち上り、その匂いが空腹の民衆を引き寄せる。 列を作る民衆の顔には疲労と、束の間の安堵が混ざっていた。 ここでも、神官たちがレオンを遠巻きに見ていた。 その視線は、まるで珍しい獣を観察するかのように、好奇と警戒が混ざったものだった。 レオンはその視線を感じ取り、少し肩が強張った。 だが、動じる姿を見せまいと、気丈に振る舞っていた。 シグルは穏やかな表情を見せつつも、神官の動きや民衆の反応を警戒していた。 セレス自らが配膳を手伝い、一人一人に笑顔で食事を手渡していく。 その動作は慣れたもので、民衆も彼女に笑顔を返す。 それは、彼女と民との信頼の証だった。「セレス様、ありがとうございます」 ある若い母親が、深く頭を下げた。「いいえ。どうか、温かいうちに召し上がってください」 セレスは優しく微笑み、その手で母親の手を包み込むように食事を渡した。「聖女様……なんとお優しい……」 老婆が涙を浮かべながら、セレスに手を合わせた。「神の慈愛は、すべての人に等しく注がれます。どうか、お身体を大切になさってください」 セレスは、一人一人に丁寧に言葉をかけていた。 声音は温かく、民衆の心に染み入るようだった。(これが……神殿――聖女としての役目なのか) レオンはその姿を見て、心の中で呟いた。 彼の目が、セレスの動きを追う。 彼女は訪れる人々に言葉をかけ、その手は決して急がない。 まるで、民衆一人一人が大切な存在であるかのような振る舞いだった。 そしてレオンは、列を作る民衆の姿を間近で見た。 痩せ細った体、ぼろぼろの服、疲れ切った目。(これが……俺の国の民なのか)